中別所 板碑群
中別所には石仏と公卿塚という2つの板碑群があり、石仏の中にこの碑がある。
この碑は、中世の郷主名をしるす資料として貴重であるばかりでなく、薬研彫(やげんぼり)の梵字も津軽の板碑中傑出したものばかりである。
板碑の概要
弘前市内に残る金石資料のうち、最も多いのは板碑である。
種子・年代・人名・経文・造立の事情などが碑面から読み取れるほか、石碑に刻まれた様式から、文化の受容の状況や造立者の信仰のありさま、信者の動き、在地勢力の活動などさまざまな事象を考察することができる。一枚の板碑が史料として貴重であると同時に、現存する板碑を総合的に考察すると、中世史料の少ない津軽地方におけるさまざまな事象を示唆してくれる。
板碑は、「板石塔婆」「青石塔婆」とも呼ばれる石碑である。故人の供養のほか、造塔者の来世の幸福を願って生前に造塔して礼拝する、いわゆる「逆修」を目的として造立されたものである。
全国的視野で見ると、最古の板碑は埼玉県大里群江南町須賀広にあり、嘉禄3年(1227)に建立されている。埼玉県には古い板碑が多く、ここから全国に広がったという見方が強い。
板碑の造立は、室町時代に入ってからも盛行した。時代が下ると、僧侶や豪族が造立した鎌倉時代と違って石碑は小型化してゆき、碑面から庶民の信仰が読み取れるようになってゆく。
青森県の板碑分布
青森県内の板碑は、津軽地方に圧倒的に多く見られる。実地調査で確定できた数は284基余(大鰐町三ツ目内や弘前市乳井古堂・国吉には確定不能の板碑がある)、そのうち弘前市内の板碑は133基余となっている。
津軽地方の板碑は、碑面の特色や造立の年代から大きく2つの地域に分けて考えることができる。
その第一は岩木川と平川の合流点、藤崎町藤崎と弘前市三世寺を北限とする平川・浅瀬石川の流域、黒石〜大鰐を結ぶ東根の山麓地方及び岩木山麓の西根地方、言い換えると津軽平野内陸部に相当する。
第二の分布地帯は西海岸地方で深浦町から鯵ヶ沢町・市浦村にかけてである。なお、青森湾岸には青森市内に2基あり、そのうち石江神明宮の板碑は、菅江真澄の写生画が正しいとすれば第一の分布地帯の延長線上のものと考えられる。
板碑の調査・研究史
弘前市中別所の板碑
「この中別所と宮館といふやかたありけるあはひに、(中略)石仏ヶといふ田のあぜ、畑中、木の下、草の中などに、石塔婆のこゝらたち、あるは、ふしまろび莓(苔)に埋れ、すれやれて、文字のすがたもやゝ見やらるゝは、(中略)しらぬ弘安、正和、延慶、永仁、元応は、よみもときたり」
(都介路迺遠地)
内容的には信じがたい部分もあるが、1800年ころの板碑の状況を知ることができておもしろい。
菅江真澄が津軽地方の板碑に興味を持ち始めたのは、寛政8年(1796)ころからであり、5年後の享和元年(1801)には津軽を去っている。真澄の調査は弘前藩に影響を与え、享和2年(1802)6月4日に触を出し、銘のある金石造遺物を届け出るよう、また年代・所在地を確認するように命じている。菅江真澄が津軽を去った翌年のことであり、調査関係者は真澄と深い交わりのあった人々である。この時の成果は写生や書物などの記録となって現存する。
なお、中別所の板碑(宮館)は『撞鐘古碑石覚調之覚』などに記録されている。
<参考文献>
年報「市史ひろさき」弘前の文化財