大石武学流庭園
弘前を中心とした津軽地方には、各地に「武学流」あるいは「大石武学流」と呼ばれる様式による庭園が多く残っている。それらは主として明治・大正両期に盛行したものであるが、現在でもなお実際の作庭にこの様式が踏襲されている。
すなわち「武学流」は津軽地方の庭園の様式の代名詞になっているのである。
わが国の庭園文化は、近世になってから地方の都鄙に伝播し、更に庶民の間に普及していったが、津軽ではこのような特別の発展を遂げた。「武学流」の行われている範囲は津軽一帯に広く、その数は多い。
武学流庭園の特色
《地割》
大規模なものは約5,000㎡の築山泉水庭、小規模なものは約120㎡の平庭枯山水まで、主館の座敷(書院)から正面に中心軸をとり、その線を中心として景をまとめたものが多い。すべて傾斜地・山腹・山脚などの複雑な地形は避け、平坦地に立地する。
従って滝は枯滝とするが、水道水などを人工的に落とすように改造したものもある。借景(園外の遠景)に岩木山・弘前城・津軽平野等をとり入れたものは、大規模庭園に多いが、むしろ主人守護石をもって庭景をまとめた小規模の庭園に武学流様式の面目があるように思われる。
《材料》
石組飛石等に用いる石材は、弘前一帯では岩木山の岩木石、黒石一帯では東部花巻山の花巻石と称する山石の巨大で形も粗野なものを好んで選び、枯流・枯池には川石をも用いているが、全て近隣に産するものである。この地方に産しない色石・雛石のような派手なものは用いない。
庭樹では、高木としてはモミジ・クロマツ・コウヤマキ・イチイ(オンコ)・ゴヨウマツ・イトヒバ等、中・低木にサツキ・ソナレ・ツツジ・ドウダン・ツゲ・ハイビャクシン等の風土に産するものを用い、特に好んでよく刈り込まれている。
《添景物》
添景物の主たるものは、山燈篭(野夜燈・化燈篭ともいう)であって、2mを越す巨大なものもあり、火袋の三日月窓を正面に向けて据えるのが、常套であって、「武学流石燈篭」ともいってよいほど特徴的である。これらは、この地方で製作される。この山燈篭の民族的な形態が庭園の郷土的風格を濃厚なものにしている。それは桂離宮などに見る自然石を笠に使用した活入燈篭の趣味とは個別のもであり、津軽の庭の野趣を作り出している。
武学流の発祥
「武学流」または「大石武学流」と称される作庭流派の発祥は、正確なことは全く不明である。それはこの地方の伝統的作庭の主流というよりは、唯一の古典的手法として評価されてきたが、武学流の宗家の名を限定することはできないし、現存する武学流作庭家(坪師とよばれている)たちも特に結束して流統を維持しているわけではない。
津軽地方における作庭の遺構としては、史跡弘前城跡に残る三之丸のものが最も古いものに属すとされており、山鹿八郎左衛門がこれに関与したものと考えられる。山鹿八郎左衛門は藩の「庭園守護職」であった(故佐藤忠吉氏)といわれるが、恐らく作事と普請を兼ねた奉行であり、山鹿家は兵学の家でもあったから、このあたりに「武学」の名の起りをさぐることが多いようである。
また、武学流の流祖として「大石武学」なる人物が実在したように記載した本があり、その他種々と牽強附会の説があるが、いずれも根拠は薄弱である。「武学流」という語からは兵法を作庭に応用したかに感じられ、馬場・弓場などを具えたからだ(佐藤忠吉氏遺文)という大名庭と同一視した説もある。
その他、庭石の配置を軍兵の布陣になぞらえて石に命名するような仕方もあるが、現実の武学流庭園の石にはそのようなことはない。
このように、発祥についての多くが不明のままだが、大石武学流を作庭者自ら明記したものの一つが弘前市瑞楽園にある「庭園完成記念碑」であり、碑文や写生図の懸軸が残されている。
<参考文献>
津軽の庭
昭和53年3月1日発行/編集:財団法人 観光資源保護財団